3.11とラジオのこと
あの日から7年。
「東日本大震災」
「東北地方太平洋沖地震」
M9.0 最大震度6強
これによる津波で東北沿岸地域に巨大津波が押し寄せた。
そして、津波は私の住む女川町、大切な人たちを飲み込んだ。
津波が来たあと、もうダメかもしれないと思っていた友人が玄関先に立っていた時の、
生きていた!と嬉しい気持ち。
次々と分かる安否の「否」
空虚
憤り
明日をも知れぬ状況も長く続くことになった。
しかし、そんな中でも強く強く逞しく生きて来た人々。
大多数の人々は互いに寄り添いあい、助け合った。
ラジオを始めた時、私はずっと津波で死んだおばちゃんに向かって話し続けているような感覚だった。
幼い頃から大人になっても、ずっと可愛がってくれたおばちゃん。
伝えきれなかった感謝。
悔しくて悔しくて、どうしようもなかった。
今でも会いたい。
7年って長いようであっという間だよ。
あの日から今日まで出会ってくれた人達。
ありがとう。
ラジオのリスナーのみなさん、ありがとう。
出身でもない、女川に関心を持ってくれて、寄り添ってくれてありがとう。
みなさんからのメッセージのおかげで、自分の心に負け、幾度も折れそうなってもその都度、奮い立たせることもできた。
そして、FM関係者の皆さん、改めて私を仲間にしてくれてありがとう。
何もなかった私に、沢山のチャンスをくれたのは間違いなくFMの皆さんだった。
本当はね、「人前で話す」の苦手だったの。
自分に自信がなくてね。
ニコ生やってたのは、そんな自分を克服したかったから。
いつもニコ生は配信するまでに時間かかってたんだ。
本当にいいのか?出来るか?変じゃないか?人来るかな、来ないかな?
そんな不安のために30分以上枠取るまで時間かかってた。
そんな私はラジオのおかげで人前で話すことが少し得意になった。
得意というとあれか、「マシになった」かな。
4年半という月日を女川さいがいエフエムの「さいじゅちゃん」で過ごさせてもらった。
3.11から今日に至るまで、あの日を起点にし、私の人生がいろんな意味で大きく変わった日々だった。
まだ心はしっかり立ち直ったわけではない。
いつか、そんな日が来るだろうか。
希望の丘スタジオ。
一番長く放送をした。
いろんな思い出があるスタジオ。
プロムナード付近のかさ上げ工事。
なかなか撮影できない位置から撮れた一枚。
いつもの定点観測地点から駅方面。
とてもお世話になっている方に、福島県富岡町や夜ノ森などに連れていってもらった。
この街は母と父が新婚時代を過ごした街だ。
当時の女川の状況と比べると、そのままの形で、あの日から変わらずそこに建っている駅舎や建物に胸を締め付けられた。
かさ上げ工事が終わるまで大雨が降るたびに冠水し続けた道路。
さざ波が立つ、道路を見るたびにあの日の光景を思い出していた。
町の皆さんへ情報を伝えるために、スタジオに泊まり込み、昼夜情報を流し続けることで、自分も復興の一助となっていることが嬉しく感じた。
町に住む、たくさんの人から話を聞き、悲しみを、憤りを聞き、喜びも、未来の話も聞き、それを全国の皆さんへも伝えるお手伝いもできた。
自分たちの活動に誇りを感じ、ひたすら走り続けた。
私の3.11は、「女川さいがいエフエム」とともにいつもあった。
閉局し、今は「一般社団法人 オナガワエフエム」と名前を変え、番組を配信し続けている。
当時のメンバーとはまだ交流もあり、会えば変わらない関係がありがたい。
今、女川は綺麗に整い始め、災害公営住宅も出来、仮設から新たな住処へと引越しした方も多くいる。
希望の鐘商店街は解体も終わり新たな建物の基礎を作り始めた。
その一方でまだ仮設店舗で営業している方もいる。
なのでまだ、復興は完了していない。
震災発生時、復興まで8年かかると言われた、その8年目がスタートする。
あと少し。
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